【日本茶紀行のスタイルは眠気も吹き飛ぶお茶の煎じる茶道】

福来茶留あわちゃんです

 いつも購読頂きありがとうございます。

茶道【茶の湯】の歴史から現代までの日本茶紀行

日本に茶道を確立させたのは千だと言わております。

高校歴史でも習ったと思いますお茶の年代から

現在の茶道に至るまでの歴史を細かく解いてみたいと思います

平安時代に中国から伝わってきたお茶は

薬みようなりと伝えられております。
中国に渡った留学僧が持ち帰ったものですがお茶の葉を丸めて
団茶にして飲用していましたがあまり美味しくなかったみたいです。
その僧侶たちが嵯峨天皇や貴族階級に伝えたのが始まりだそうです。
薬の一つでお茶は漢方薬だったのでしょうか?
その当時は漢方薬が薬だったので、お茶の葉もその中の1つでした。
その後留学した栄西によって抹茶として飲みやすく改善され
喫茶としてもたらされました。
選手寺院を中心に抹茶が普及したのですが
特権階級の人だけが引飲用していた。
その後武家階級に広まり茶道の基盤になったのです。
お茶が娯楽の要素になったのはこの頃からです
節の間でお茶の種類や産地を当てる遊びが始まり
闘茶と言う遊びが流行した
その意味はお茶歌舞伎で博打性の色が濃くなり禁止令も出たほどです
ここで武道と同じく茶の湯、茶道の誕生です
高価な美術工芸品を飾り茶道具を
鑑賞しながらお茶を飲む茶会が行われた
いつの間にか娯楽性の強いものが一般的とあって
僧侶の礼法を重んじた茶の湯わび茶が生まれました
アニメで有名な一休さんはご存知でしょうか?
本名は一休宗純に学んだ村田珠光が茶道具などに
信楽焼、伊賀焼などの焼き物を取り入れた。
この思想は武野紹鴎によって茶道として広まったそうです
その当時堺の商人の千利久が師であり紹鴎が受け継ぎ
豊臣秀吉にめいぜられ侘茶を発展させたのです
茶室の中で戦略家としても千利久は有名です
また信長、秀吉の茶の師匠として活躍したそうです
その後、武士の心得として儀礼として取り上げられた。
お茶の葉を粉にした抹茶を利用した、喫茶としての
茶道の流派が生まれ三千家と他の流派が増えたのです。
利久から始まり表千家、裏千家ととして現在まで続いています。
その後庶民に浸透し茶葉を煎じたものが飲まれていました。
その後宇治地方で玉露茶葉の製法が編み出され
煎茶なら気楽に飲めることから煎茶道が始まり
女性が行う茶会の文化が始まりました。
茶道の習い事として、女性の仕事として昭和初期から
成長したいと言う願望から習い事として招き寄せました。
今は男女差別のない社会の為ありませんが
女性の仕事として職場で活躍しておりました
接待の仕事として、学び社会に君臨しており
当時は接待業務は会社、職場にとって
ビジネス、喫茶として大事なことの業務でした。
茶道について昔から現代までの歴史について
日本茶紀行として書きました。
最後までの購読ありがとうございました。
次の章楽しみにしてくださいね
          福来茶留あわちゃんでした。

緑茶とは日本人の環境は見た目で選ぶな!

福来茶留あわちゃんです。

お茶の種類ついてお話したいと思います、

 日本で生産されているお茶はほとんどが緑茶です

 緑茶とは日本人の環境と生活によって
飲みやすく好みやすく考案されたお茶でございます。
 
昔は直接お茶を丸めていぶすことによって引用されていましたが
 
一般に普及し始めたころ僧侶が抹茶にして引用しておりました。
 
武将の嗜みとして飲用されその後煎茶部門に入り一般庶民、
 
向けの新しい引用の仕方として緑茶が生まれました。
 
現在は日本で生産されるお茶は大半が緑茶といえます。
 
お茶を蒸すことで緑素を保ち乾燥させることで緑茶が生まれ
 
この製法は蒸し茶とも言われ全国の3分の2が煎茶として加工され普及しています。
 
現在日本で生産されているお茶の種類はたくさんあります。
 
これからその種類について述べたいと思います。まず大きく分けて
 
煎茶部門、玉露部門、抹茶部門、玉緑茶部門、釜茶部門がありますが
 
それぞれ特徴と価値の違いがあります。
 
お茶の質の良さは新茶、1番茶、2番茶、3番茶、秋冬番茶の順となります
 
★新茶
 
     最初に生育した新芽を摘み取っ作ったも
 
のです走り茶とも言いますその特徴は若葉の香気で爽やかで清々しい香りがあります。
 
渋みの少ない甘みとアミノ酸が多く含まれています。
 
★1番茶、2番茶、3番茶は茶葉の積む時期のことをいいますが5月末から6月末が最盛期で
 
渋みが強くカテキンやカフェインが多く含まれています。
 
★秋冬番茶は最終番茶とも呼びます。7月中頃から8月下旬ぐらいまで最盛されます。
 
茶葉の最終となります。
 
サラッとした感じで番茶ほうじ茶などに利用されております。
 
ここで新茶の頃で八十八夜とはご存知でしょうか?立春から数えてハ十八日目のことをいいます。
 
5月2日になります作物の生育基準となっています
 
なので八十八日かけて育つた作物は
 
とても美味しいとされています。
 
また縁起の良い日とされています
 
茶摘みも最盛期となり極上の茶葉とされ
 
古来から不老長寿として珍重されています
 
貴重な物として生活の中に溶け込んで
 
おります。もてなし、喫茶、一家団欒の為
 
これが日本文化の象徴です。
 
日本人であるならば誉れ誇りとして
 
愛して欲しいと思います。
 

京都にまつわる日本茶文化とお茶と和菓子歴史を得る前に知って欲しい

福来茶留 あわちやんです

コロナ問題で大変な環境になつております。

それぞれの自粛と責任が必要と思われます。

体にはご自愛くださいませ

不思議なのですが

お茶の産地の温暖なところは感染が少ないみたいです。

今日は巷で京都と言えば宇治茶

茶と言えば抹茶、玉露、と皆様の知識にはあると思います。

京都は日本文化の歴史として有名であり誰でも

日本人であれば観光地でもよく知られています。

確かにお茶についての歴史は静岡と京都は

生産地ですがお茶の歴史は九州の佐賀からのルーツがあります。

地方によって生活の仕方と環境の違いがありその地方に会った

生産と飲用方法があり土地風土があると思われます。

日本の京都のお茶歴史の番付は第1位!に推薦します

 

 

 

 

 

 

 

お茶葉には伝来と歴史がありルーツがあります

 僧侶が九州佐賀から伝えて今の京都までの伝来ルーツがあります。
 
いきなり京都から始まった事ではありません。
 
製茶方法も地方風土にあった方法で製茶されてます。
 
一般に普及する為栽培方法、製造方法、
 
飲用方法を中国で学び、それを緑茶として
 
普及する為の方法として京都で始められた
 
歴史である事です。
 
京都のお茶と言えば全国的には宇治茶が良いと言われていますが、
 
抹茶のことを宇治茶と言うくらいの認識があります。
 
ところが京都の人に聞けば街では京番茶とも言う人が多いでしょう
 
番茶を焙じるたものです中国で得た方法で
 
200度位の熱で焙煎したものですが
 
茶葉の色茶褐色になっものです
 
下級クラスのお茶ですがタンニン酸が少なくなり
 
歴史の深い飲み物ですが一般的なもので
 
乳児の子や子供さんには必要で最適な飲み物だと思われます。
 
また香りがアロマ的効果があり
 
癒されているのが現実です、
 
脂っこい食事の後によく引用されており
 
健康的な飲み物として利用されております。
 
宇治茶といえば玉露と抹茶で有名ですが
 
産地として福岡八女も玉露の産地があり
 
現在はこの2箇所と言われてます
 
このことからもお茶の歴史とルーツが分かっていただけると思います。
 
深掘りすると大変面白いです
 
京都にはこれにちなんで、美しいお菓子、京菓子も有名です
 
お茶とお菓子はつきものと考えられます喫茶として茶道が生まれました。
 
このことからも日本食文化としてつながっている事は間違いないと思います。
 

最後までの購読ありがとうございます。

                 福来茶留あわちゃんでした。

日本茶紀行 お茶の伝来と日本の茶を人生にたとえたら、     

 福着茶留のあわちゃんです。

いつもご来場ありがとうございます

全国の皆さま私の街、毎日梅雨に入り豪雨の被害、地震

コロナウイルス問題と環境の悪化が続いております。

生きる為の生活に大変な思いされていることと存じます。

このたびの災害により被災された皆様ならびにそのご家族の皆様に

心よりお見舞い申し上げます

 

 

 

 

 

 

 

皆様の安全と被災地の一日も早い復興を心よりお祈り申し上げますとともに

復興に尽力されている皆様には安全に留意されることで

ご活躍されることをお祈り申し上げます。

チョットした気回しで間をとることも必要だと思います。

こんな時に疲れを癒してくれたり休息のための喫茶が役に立ちます。

【あの時一息ついていればこんなことなかった】

 

 

 

 

 

 

 

日本茶の文化は一家団欒、ビジネス、真心、休息のための原点だと思います。

生活の中にアロマ効果、癒し効果と利用できるものだと思っています。

こうやって昔から文化てして認識されております。

さて本日は茶の伝来日と本の茶について述べたいと思います。

茶書の最古の陸羽(りくう)があらわした「茶経(ちゃきょう)」があります。

内容は茶の種類、産地、茶器、煮方・飲み方など

飲茶全般についての百科全書となっています。

当時のお茶は簡素なもので団茶といって、茶葉を蒸して丸めたものを乾燥させて飲茶として使用していました。

碾(てん)という薬研(やげん)でこなにして沸騰した湯に少しの塩を加えてこなにしたお茶を

いれて竹箸でかき混ぜて茶碗に注いで飲むものでした

 

 

 

 

 

 

 

 

「茶経」は水の沸かし方湯の沸き具合などを細かく記載してあり

飲茶そのものを文化的な方法を作法でまとめた著書です。

そのころ中国ではすでに飲茶が習慣として生活に広く行きわたり

利用されているとしたためてあるそうです。

日本に飲茶の記録として嵯峨天皇が近江(おうみ)国韓崎今の大津市唐崎に

梵釈寺で行幸したとき、崇福寺の僧侶大僧都永忠(えいちゅう)が

お茶を煎じて天皇にさしあげたことから

喫茶は寺院の儀礼的なものにとどまり、一般的にはつたわってなかった。

そして飲茶が薬用としてするために団茶を粉末にして竹で作った茶筅で

かき混ぜてのでいたそうです。

これが茶道のはじまりで日本だけにとどまり

挽茶(ひきちゃ)あるいは碾茶(てんちゃ)といって粉末にした緑茶でした。

中国では宋代の時だけ行われ明治以降行われなくなったそうです。

栄西は源実朝に「喫茶養生記」(養生の仙薬・延命の妙術なり)

献じて茶の薬用を説くことで喫茶が武家の文化にひろめたそうです。

その後習慣は一般の社会にひろまり薬用とされておりましたが

いろんな加工の方法で大量に栽培され庶民てきな飲用として

利用されるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

室町時代には茶道文化が生まれ煎茶として緑茶が日常茶飯事として伝来し

米飯を常食とする日本人が、お茶や梅干しを大切にして

仕事の合間に「お茶の時間」をとって疲れを癒したのです。

これが日本人の生活の知恵、知識、文化となりました。

地方によって生活水準が違うために

お茶の製法、飲用方法が違ってるみたいです。

世界、日本茶の加工と種類と飲茶

★中国  ウーロン茶          【半発酵茶】
★インド、オランダ 紅茶        【発酵茶】
★日本  緑茶、玉露、煎茶、釜茶、抹茶、
     高知県の           【碁石茶】
     徳島県の           【阿波番茶】
     富山県の           【黒茶などの発酵茶】
     八女、静岡の          【玉露】
     嬉野、熊本、宮崎高千穂、日向の 【釜炒り茶、青柳茶】

このようにお茶の流通によって栽培法、もちいる茶葉の部位、製茶の仕上げ方

と種類の茶が作られ土地風土に合った好みの飲用の方法も違っている

思われます。なのでお茶には土地風土の生活にあった飲用がされているようです。

もし貴方様が一番おいしいと感じられるお茶には生まれながらの地方文化で育った

お茶と種類が知識と知恵となって頭のなかにあると思います。

お茶を飲みながら一家団欒の時に故郷を思い出しながら喫茶することで

生活に会った飲み物として環境にあったお茶が愛用されていると思います。

これが日本茶文化の誇りと言えます。

最後までの購読ありがとうございます。

                 福来茶留あわちゃんでした。

    

思い出に残る日本文化 茶道の誉れ、それが【現代では】?

日本文化 茶道

福来茶留あわちゃんです

今日もご来場、感謝いたしております。

日本文化の象徴ともいえます。

茶道についてお話したいと思います。

 

貴方が高校の時代に部活でお茶、茶道部といった

クラブ活動があったはずですが

この活動は日本文化の教育の流れの中に指導として

教育課程の中に組み込みしていた時代があります。

今の若い世代の人達にはこんな経験は薄いと思います。

コーヒーで言いますとおいしいコーヒーを立てるのに

いろんな方法で行いますが

日本茶も真心を伝えるもてなしのために

美味しく立てる方法学び喫茶として利用されているのが

日本の生活の中に組み込まれている常識となっております

これから茶道について興味持って頂き

ビジネスに対するまたいつか団欒の生活に活用して頂けると

嬉しく思います。

では続けたいと思います。

日本文化の誇り、茶道の心得

 

 

 

 

 

 

 

茶道とは

読み方はさどうまたはちゃどうとも言います。

ご存じでしたか?

伝統的な方法によってもてなし為に抹茶を立てる事で、

茶の湯とも言われています。喫茶として利用する場所と思っていただいて構いません。

茶を入れて飲む事を楽しむだけではなく、

生きていく上での悩みや相談、目的、考え方、宗教、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして茶道具や茶室に飾る陶芸美術品などの展示を利用して

満喫し高価な器で趣味として抹茶を味わう風習として

ありました。

今では自分のマイカップと同じで趣味感覚で大事に

活用されていました。

当時は皇族、殿様だけがもてなしとして満足するために

高価な器でした。こうして

広い分野にまたがる総合芸術として発展してまいりました。

日本文化の総合芸術

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

茶道は、抹茶を飲みながら、趣味として楽しむ事に様々な文化として加わって発展ました。

つまり、茶室のある家庭 庭園の環境づくりなど住まいに関する空間、

茶道具を選んで、それを鑑賞したりして満足した工芸品を用いて

お茶会で和菓子、解析料理などに衣食住をたしなみ気持ちよくもてなす為に

作法が融合した総合芸術となりました。

また茶道は禅宗と深く関わりがあるそうです。

そこで「わび・さび」という精神文化が生まれました。

わびしい、さびしい、といった語源で満たされない状態を認め、

慎み深く行動することを言っています。

茶道では基本として精神を大切にして

静かな場所でお茶をたてることで集中することでこころを落ち着ける場として

自分自身を見直すことで精神を高めていたようです。

茶道では「一期一会」という言葉があり

一度の出会いを大事にすることで相手に最善をつくす。

といった意味ですが

精神にのってお茶をたてることがマナーとなっています。

また禅宗との深い関わりがあります。

唐の時代に茶道は中国から伝わりました。

鎌倉時代に全国に禅宗が広まると同時に茶道も一緒に広がったようです。

東山文化のもと、茶の湯が成立したのですが

安土・桃山時代に千利休〔せんのりきゅう〕が侘茶〔わびちゃ〕を完成させたのですが

そのことが現代の茶道の原型になっております。

 

 

 

 

 

 

 

利休がなくなってからいろんな日本文化とし流派が生まれました。

子孫に受け継がれ、 表千家〔おもてせんけ〕、裏千家〔うらせんけ〕、

武者小路千家〔むしゃのこうじせんけ〕の三千家が生まれました。

今では外国まで日本文化として認識されています。

作法の手順が流派によって方法が違います。

道具として茶筅〔ちゃせん〕、夏目〔抹茶入れ〕、茶さじ、茶碗 懐紙〔かいし〕

使い茶道に合わせて行います。

礼儀作法だけでなく茶室や茶庭などの鑑賞、

お客様との心の交流についても大切にいたします。

千利休の教えは

茶道の心得を、「四規七則〔しきしちそく〕」と説いたそうです。

★「四規」とは和敬清寂〔わけいせいじゃく〕のことで意味は

   ※和…お互い仲良くする事。
   ※敬…お互い敬いあう事。
   ※清…見た目だけでなく心の清らかさの事。
   ※寂…どんな時にも動じない心の事。

★「七則」とは、他人に接する時の七つの心構えです。

   ※心ををこめる、
   ※本質を見極め、
   ※季節感を大切にし、
   ※いのちを尊び、
   ※ゆとりをもち、
   ※やわらかい心を持ち、
   ※たがいに尊重しあう

おぼえやすいように、和歌の形にしたもので

「利休道歌〔りきゅうどうか〕」としているようです。

以上が日本茶文化として誇りを伝えました。

こんなことが日本の生活の中に認識して頂けると

嬉しいです。知ることで、貴方の幸せは貴方が守ります。

最後までの購読ありがとうございました。

          福来茶留あわちゃんでした。

 

 

 

 

 

あなたが知らなかったお茶 にまつわる、歴史上の人物 情報選択の自由

 

福来茶留あわちゃんです

今日はお茶にまつわる歴史上の人物の貢献について

書いてみました。

最後まで購読お願いします。

お茶 歴史 人物の情報

人類史上最初にお茶をはじめて口にしたのが

神農と言われております。

 5000年前になるそうです。

お茶発祥の国中国からの歴史として物語っています。

長い歴史の中で、お茶をはじめて飲んだ人物が

医薬と農業を司る神として崇められた皇帝、神農だと言われています。

草木の薬効を調査するために野山を駆け巡り自分で服用して試すことで

効能を試していたそうです。その中にお茶の話があります

体に良いものもあれば毒もあったと思います。

毒にあたり苦しんでいて休息してるときにお湯を沸かし途中に

一枚の葉っぱが湯の中に入りそのまま煎じて飲んだところ

神農がそれを口にすると、そのおかげで毒は消え体調が回復したのです。

その葉っぱがお茶だったのです。

その後毒におかされるたびに

茶の葉を噛んで毒を消したと伝えられています。

なので健康上体内の毒消しとして考えられると

思いました。自然の力に感激してます。

中国の皇帝が2100年前に好んだお茶があるそうです。

中国で書かれた医学書の中の

『神農本草記』にもお茶についての

記述が残されていたのですが

中国皇帝の墓から、世界最古の茶葉の固まりが発見されたのです。

当時にお茶が飲まれていたことの確かな証になりました。

618~907年に飲まれていたもので

世界最古のお茶の専門書『茶経』

中国の陸羽(りくう)によって世界最古のお茶の専門書『茶経』

    陸羽(りくう)

が書かれました。この中には

茶の製茶法や飲み方、道具のことなど

お茶に関するあらゆる知識が書いてあるものです。

中国の茶文化に大きな影響を与えた人物が

陸羽は、茶聖(茶の聖人)と呼ばれ、

中国で崇められる存在です。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本にお茶をもたらした「遣唐使」や「僧」である人物

中国に渡った遣唐使や留学僧によって日本に伝来されたのです。

天台宗の開祖・最澄は、中国から茶の種と喫茶のもてなし法と習わしを持ち帰りました

持って帰った茶の種を比叡山のふもとで育てのが始まり

僧の永忠嵯峨天皇に茶を煎じて献上したと書かれています。

嵯峨天皇は、近江、丹波、播磨などにお茶を植えること命じ、

毎年献上させていた。そのくらいお茶好きだったそうです。

なので由緒ある神社では毎年献上茶祭が行われております。

こんなことから神と仏教の縁の繋がりがうかがわれていのではないでしょうか?

お茶 歴史 人物で昔ばな しをしたいと思います。

真言宗の開祖・空海は中国現地で茶文化に触れる

日本に中国の喫茶文化を伝えた言われています。

なので空海も最澄や永忠もお茶をこのんでいたそうで

健康的で貴重な飲み物でした。

栄西によつて日本茶喫茶が始まり茶の湯のルーツにもなった「抹茶法」

将軍・源実朝に『喫茶養生記』を献上した後

「無料の将軍・源...」の画像検索結果  

      将軍・源実朝

二日酔いで気分が悪かった源実朝にお茶を飲ませ、二日酔いがよくなり

大変喜んだそうです。

平安時代に日本の茶文化の発展に大きく貢献しております。

ここでお茶の産地である佐賀の嬉野、福岡の八女宮崎の高千穂、日向の

焼き畑農耕でお茶の栽培、山茶の自然茶の歴史があります。

なので当時の貿易国の港として長崎であるためお茶のルーツは

流れから考えても最古のお茶文化の始まりは佐賀と八女にあると

思います。其のわけは、鎌倉時代初期の1191年、中国に渡った僧の栄西

佐賀に帰国の際各地方に種をまきながら帰途したことです。

栄西の行いが庶民にまでお茶が普及するようになった原点です。

豊臣秀吉と右田三成の緑はお茶がきっかけ!

お茶がきっかけで縁ができた話なのですが

太閤秀吉の時代になります。

         太閤秀吉

秀吉がある日鷹狩りに出かけたときにね山野の中を散策していたところ

途中で喉が渇いたので、山寺で憩い、茶を求めたのですが

その寺の眉目秀麗なる小坊主、佐吉という人物

大茶碗にたっぷりぬるい抹茶をたてて捧げたのです。

秀吉が一服と所望すると次にやや熱くした半分の量を捧げましたところ、

こころみに三度所望したそうです。

すると最後は小茶碗にいとも少量を熱くして 恭しく進めたのですが、

秀吉は心が通じたのか才知に感じ入り和尚

その坊主を連れ帰り、近侍としたそうです。

その人が天下に名をなした器量人、石田三成と言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

 

 

          石田三成

こんなことから。飲み手のことを考えて茶を入れる心が

喫茶の心となり人間として真子心と心が伝わる

引き金になり縁が生まれるのではないでしょうか?

豊臣秀吉と石田三成の縁がとても面白いと思います。

日本茶輸出 歴史はレベル高いな、と思うだろう。それが日本茶文化。

福来茶留あわちゃんです

今日の課題は日本茶が世界的に健康に良いことで認められ

注目浴びているが歴史上輸出についていろいろ問題があったようです。

日本茶輸出の歴史

1.お茶が最初に輸出されたのが歴史上1610 年ごろ

オランダの東インド企業が、

長崎の平戸からヨーロッパの日本茶を輸出された

のが日本で最初に輸出されたのが始まりです。

「日本茶貿易港」の画像検索結果

当時黒船来航後に、世界中と親善通商条約が結ばれて

1859 年安政 6 年に最も重要な輸出商品として 181 トンあまりが輸出

されていたそうです。1882年明治のころには生産量の実に 82%が輸出されていた

それ以後、決定的な輸出品として国中の業界開設に寄与することになり

お茶と絹糸と一緒に重要な輸出品となったそうです。その主な輸出先はアメリカ合衆国であった

日本で当時輸出できる地域の港開港場は全国で五港しかなかった。

明治元年にはこのうちお茶を取り扱うことができるのは

横浜、神戸、長崎の三港と決められていて

 

静岡からお茶を海外に輸出するには横浜港まで運ばなくてはいけなかったそうです。

さらに、「輸出」としても、何を隠そう

「外商」という様な国外の貿易商会社が出てきて輸出を引き受けていたため、

加工側から想定すると、外商へお茶を取り引きするに過ぎず、

産地の仲買業者や問屋商社に売り渡すと不利な取引を増したり、

目先の利益ために粗末なお茶を販売して信頼を落としたり

することもあり価格が安定してなかったのです。

その上、横浜港への運送代金の負担が大きく、

産地へかかる利益はちょっとしたものであった

こうしたした理由から、静岡の茶業関与機関において

「直輸出」へのタイミングとして高まった

「直輸出」で外国と直接取引きできたら中間時点の費用が軽減できるに関係なく、

外商に不利益な取引を押し付けられることもいらず、

また海外相場のニーズに応じた生産も可能になり

有利な取引が期待できると考えられていた。

静岡県内でも茶の輸出は横浜港まで運び集めることで

県内の様々な産地が最寄りの港から行っていました。

その当時茶の移出港としては沼津、清水、焼津、相良、福田、川崎牧之原市、地頭方等があった

このような現状を打破され茶産地・静岡でも直輸出される動きが活発化したそうです。

一番の中心港として舞台となるのが清水港でした。

そして産地が横浜などの開港上を通らず

産地近くの港から直接海外へ搬出することになつた。

いわば能力的な直輸出を行うという意味での「直輸出」の大きな引き金となることが

明治 22 年の東海道線の全線開通にあるそうです

鉄道開化により静岡で集められたお茶は鉄道を利用され清水港の海運業は急に

衰退を余儀なくされていったのである 

そこで明治 24 年に「特別貿易港」指定への請願書を提出されたのです。

清水港からの輸出の方が経費節減できいろんなコスト低減ができ

メリットある輸出ができると促進される

このことが県内の利益として製茶業の発展になった。

国内の産業として明治維新以降、積極的な殖産興業策により

近代化を推し進めようとする政府に熱い思いを届けた。

明治 29 年には、国会、政府へと働き掛けることで「開港外貿易港」の指定して得た

そのほか、3 年あとの明治 32 年、清水港は全国 22 港の一つとして 

海外貿易の開港場に指定され、直輸出発展に関して巨大な動き出した。

なぜでしょうかその後清水港に日本輸出のための船が入港しなくなったそうです。

その分けは当時の清水には日本茶の再製する工場がなかったので

お茶に関しては便利の良さから依然として横浜港からの輸出されていた。

そして産地からの直輸出実現への最後の大きな扉は

静岡県茶業組合連合会議所の海野孝三郎氏らにより開化された。

海野氏が静岡市に静岡製茶再製工場を創設し日本郵船と交渉の末

外国航路の始まりとなった。その後日本郵船の神奈川丸が清水港に入港したのが

1906 年明治 39 年 5 月でここから大きく変化した明治 41 年には神戸港が

明治 42 年には横浜港を抜いたことで

 

全国茶輸出高の 77 パーセントを占め、名実共に日本一の日本茶輸出港となった。

そのころアメリカ合衆国は英国に遅れて、紅茶の消費が徐々に増え他為に紅茶が

輸入量が緑茶を上回るに至ったなのでは低迷を続けた。

第次世界大戦に伴う特需。日本緑茶とインド・セイロン紅茶とでは、

後者の大規模製茶機械加工、

冬場まで茶葉を摘める有利性、使用する低賃金クーリー労働力といった生産性格差、

 粗製茶により日本茶の信用の低下、

何より当時の流通技術では品質保持が紅茶に有利という点から日本緑茶

その後、年々増加し 2005 年には 1000t 台、2010 年には 2000t 台までになった。

輸出が増えた理由としては日本茶の品質の高さや機能性が評価されたことが挙げられる

しかし、品質は優れていても中国茶などと比べると高価であることで

日本茶の輸出も 1891 年の 2.4 万トンのピークの後、長期低迷の時期に入ったそうです

このことから日本茶文化での需要効果高めるために

いろんなイベントを開催して普及を図っています

  ★飲む普及

  ★食べる為の普及

  ★…お茶摘み体験、お茶の工場見学、お茶料理

  ★お茶に関する観光提案

  ★お茶フェス喫茶

、国内の輸出茶生産体制、各国の輸入条件に合った輸出体制等を整備し

 きれていないことなどが問題として挙げられ 

 さらに輸出を増やしていくにはこの点を解決する必要があると判断され

 輸出問題で協議されています。

 
  ★日本茶輸出促進協議会 日本茶輸出の歴史

    http://www.nihon-cha.or.jp/export/trends.html
  ★日本茶輸出の歴史に学ぶ清水港茶輸出開始から 100 年

    http://www.city.shizuoka.jp/000_004229.html
  ★[戦前の茶輸出 清水港と製茶

    http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr4-53.pdf
  ★日本茶輸出促進協議会 日本茶輸出の歴史

    http://www.nihon-cha.or.jp/export/trends.html

今日本の茶が世界で注目されている。各国によってそれぞれ強み弱みがあるが

その点も踏まえたうえでのみ下降傾向にあるがそれ以外の国々では

今後の茶の輸出、日本の茶の可能性は大きくみられる。

少しずつではありますが

世界でも日本の茶の効果に注目され煎茶や玉露などを提供しているお茶販売店を買収し

で健康志向の食生活、健康食品など

に注目があるため日本の茶における効果にも大きな期待がかけられている。

緑茶には様々な効能がある。

いくつか挙げてみると、緑茶には老化防腐剤が含まれており、飲む

だけでお肌の老化を防ぎ若々しさを保つことがで切ることに加えて、
★アンチエイジング効果によりお肌清潔効果

★外的要因に破壊されるのを防ぐことができる。

★多くのタイプのがんの予防になり

★動脈硬化や糖尿病、脳卒中などの病気予防にも効果

★血糖値を下げる作用や体内に善玉コレステロールを増やす効果

★うがいをするとインフルエンザ予防

★アロマ効果でストレス解消、二日酔い防止、眠気覚まし、

★成人病予防になったりする効能がある。

★動脈硬化や糖尿病、脳卒中などの病気予防にも効果

★健康上見直しされて向上しており良さと強みのある効果

薬妙効果が優れていることで人気が世界的に人が出ているのが現実
特に掛川の深蒸しが人気が出ている

なので世界的に緑茶の良さが伝えられることになったそうです
その他にイベントを主催されています。

★海外の抹茶とカフェ文化を融合したカフェ…オーストラリアのカフェを再現

★温泉お茶の湯・茶を使った食事・茶を使った洗剤、美容用品提供

★日本人は外国人に比べ民宿よりもテーマパークなど世界観が完成させられた宿泊施設を好むため抹茶パ
 ークに隣接する。
★テーマパークにあわせルームを作り、宿泊者に向けた抹茶料理や茶道体験、お茶の香り

★アロマなど地域の名産品にと混ぜ提供する。

外国人旅行者は長期滞在する傾向にあるため、ホテルの豪華な食事に飽きるという結果

これだけ日本茶文化の健康的要素が含まれたものがある強みを全世界また日本の生活に

取り入れる誇りをもってほしいと思います。

 最後まで購読ありがとうございました。

                    福来茶留あわちゃんでした。

 

 

 

 

 

 

お茶が昔から薬用効果、特に不老長寿の霊薬としての神秘的な薬用効能

福来茶留あわちゃんです

今日はお茶の起源について投稿してみました。

少しずつお茶について興味もつて頂けると嬉しいです。

「お茶の起源」

【売れる前から知ってたよ、このお茶の起源、ワイルドだろぉ」と将来自慢できる】

 お茶のこと深堀していくと面白いことが分かりました。

文化伝説の中のお茶の起源についての話

三国時代の天地開闢説による伝説が茶の始まりで

三人の皇帝(、三人の皇帝(伏義氏、、女媧氏、炎帝神農氏)

天地創造の神話の中に登場しております。

炎帝神農

★伏義氏は食物のことを人々に伝えたとあり

人面蛇身といわれ中国の伝説上の皇帝だそうです。

日本では「白蛇伝」で知られるあの話。

中国では、それが杭州西湖にある雷峰塔の縁起話として有名な話

それも、現代の中国になって魯迅などの文人たちが伝統文化の最批判

になっているそうです。

★女媧氏とは

人面蛇身の女性で子孫を生んだといわれる

★炎帝神農氏とは

産業を興し、医術を教得ていた

火をつかさどり、火の使い方を教えることで優れた知性の神で知られて言います。

医術の神で衛生的であり、生水を飲」ことせず

火を使って水を煮沸して飲むことを人々に伝えることで安全を図った。

神農自らも煮沸 したお湯で飲用していたそうです。

お湯を沸かしているとき風が吹いてきて木から3枚の葉が舞い落ちて一緒に煎じられ

その湯を飲んだら香り良く味の良い真野(まのあたり)だったそうです。

それを調べてみたらお茶の木だったそうです。

木の葉のことを人々に伝えて美味しく飲むことを教えたそうです。

これがお茶の始まりなのです。

その後インドの僧侶である、若き日の達磨さんが禅の修業のため

面壁9年の座禅修行に入り座禅3年目はいり

猛烈な睡魔に襲われて眠気がでて、

修行も打ち切らねばならないほど眠くなったのでした

その時一本の木がみるみる置きくなつて緑の葉はっぱが茂ったそうです。

葉をたべたところ目が覚めて無事修業を完成したそうです。

神話伝説の根拠はないが

茶の始まりは中国であり、茶が昔から薬用効果があり、

特に不老長寿の霊薬としての神秘的な薬用効能があると重視され

一般的な飲み物となる前には

茶は仙薬なり、延命の妙術なり

   

 

 

 

 

 

 

 

宗教的、政治的、儀式的なものとなり禅や茶道に発展した言われています。

日本の修業した後この樹を持ち帰り薬妙なりと伝えられたそうです。

茶の古典「茶経」は

茶の植生、用途、製造方法、製造機具、茶の入れ方、茶道具など、

当時の茶の全てを解説してあり

この書によって中国はもとより世界各国に茶が知れわたり、

今日の茶業の隆盛とみて陸羽は「茶神」として崇め奉られているようです。

今でも神社では献上茶として奉納されております。

 茶商組合の一連の流れとして生産者と販売業者の間で神前に

奉納されております。

 最後まで購読ありがとうございました。

               福来茶留あわちゃんでした。

それが栄西禅師 お茶を買わない理由であってはいけないと思う。

福来茶留あわちゃんです。

お茶と関連のある栄西について投稿しました。

建仁寺開山・栄西禅師について

開山千光祖師明庵栄西(みんなんようさい)禅師。

賀陽(かや)氏の子として誕生したそうです。

永治元年(1141年)4月20日、備中(岡山県)吉備津宮の社家、

若いときから仏前の執行かさね

11歳で地元安養寺の静心(じょうしん)和尚に師事し、

13歳で比叡山延暦寺に登り翌年得度、天台・密教を修学します。

そののち、宋での禅宗の盛んなることを知り、

28歳と47歳に二度の渡宋を果たします。

2回目の入宋においてはインドへの巡蹟を目指すも果たせず

天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで

5年に亘り修行しその法を受け継いで日本に帰国しました。

その時持ち帰ったのが現在の茶種です

茶色の豆みたいな丸いものです。茶の実と言っていましたが

茶園に行くとたくさん枝元に落ちていました。

可愛い一輪の花が咲きそのあと茶色い実になります。

 

 

ひとつ入り茶の実三つの茶の実ひとつ割れ

茶の花は9月から11月にかけて咲きます。昆虫などによって花粉受粉し、

ほぼ1年後の秋に種子が熟し、地面に落ちます。

1つの実の中に1粒から5粒くらいの種子が入っています。

翌年の春に発芽します

栄西禅師が、中国から茶種を持ち帰り

もう疲れた!という人に勇気を与える栄西禅師

中国から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励しでありたい。

建仁寺開山・栄西禅師が、古く奈良朝時代と思われます

中国から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励され

貴族・僧侶の上流社会の間に喫茶の風が愛用されていました。

茶道の喫茶の法を普及された基本と原点です。

一般の人に対して茶は保健上から良薬であると、伝えられ

茶徳を讃得たのが開山の『喫茶養生記』に書いてあるそうです。

「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」つまりこの茶葉は薬妙なりと伝えられている

ので健康には役立つと思われます。

開山が栂尾の明恵上人に茶種を贈られたことも有名で

宇治の茶は、この栂尾から移され

喫茶として「栂尾茶」の始まり

茶は今日では日本人の日常生活に欠くことのできない飲料であるばかりでなく、

茶道の心得として役立っています

このことを知れば真心こもったもてなしができます。日本の誉です。

喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的な著述になっています。

我が国にも茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもありません

詳しいことはわかりませんが田舎に行きますと山茶という呼ばれる茶の木があり

自然のものですが日本の西南暖地の山間には山茶と呼ばれる茶の木があり

日本に古来ある自生茶といわれています。

この茶の木が果たして日本 山茶の分布する所には必ずといえるほど

焼畑耕作の形跡があり、

その昔焼畑として茶の木を植えていたことがうかがえます

山茶に限らず日本の茶の木には冬芽が形成されずに

温度条件がよければ何時でも生長します。

冬を知らない芽がない南方の植物になるそうです。

なのでお茶のルーツの始まりの流れがわかっていただけると思います。

つまり佐賀九州に広まり宮崎の日向、高千穂の自然の山茶も有名です。

関東で早いのはわかっていただけると思います。

そんな中こんな説もあります。

 

山茶が焼畑地帯に分布することから日本の山茶は

弥生時代、古墳時代のものではないかと見られる

説があるが遺跡は全くありませんとあります。

最後まで購読ありがとうございました。

                 福来茶留あわちゃんでした。

 

 

 

日本最古のお茶のルーツ&ピース。日本最古のお茶のルーツは愛そのもの。

福来茶留あわちゃんです。

★「日本最古のお茶」

あわじ園日本茶紀行

貴方様の名前にも先祖の歴史のルーツがあります。

一生涯の中でルーツぐらいは知りたいと思いませんか?

文化の始まり、当時の生活の在り方。価値など知ることだ

思っております。そのことを次世代に知識として繋ぐことで

日本文化の価値観を思考いただければと思います。

今日は日本茶のルーツがどんな流れで誰が伝えたのか知ることで

日本文化の必要性と生活の為の大切さを知ることで

どんな目的で日本で普及したのか解って頂けると思います。

あわじ園日本茶紀行お茶を学ぶ人にも家族がいる日本最古のお茶は近づいてこない

こんな日本最古のお茶、学べるか!と怒鳴られた悔しさといったら!?

お茶の発見は紀元前2700年ころの神農時代であり

中国の神農が野草とお茶の葉を食べていたと伝えられています

また三国時代(3世紀)に中国では茶の葉を餅状に丸めあぶって

搗(つ)き、湯をかけ、みかんの皮、ねぎ、しょうがなどと混ぜて、

他の材料と一緒に煮るスープみたいにして飲まれていたそうです。

日本茶の歴史を変えたのが【明菴栄西】とされています。

平安時代末期から鎌倉時代初期の僧だそうです。

日本で初めてのお茶の本、「喫茶養生記」を著されています

僧侶が中国から茶樹の種を佐賀の嬉野から持ち帰り高山寺で栽培され

喫茶として活用されたそうです

茶園として京都から始まり伊勢、伊賀、 駿河、武蔵でも栽培され

一般庶民に伝えられたのです。

もともと中国貿易の拠点が佐賀の嬉野にあり久留米八女に

お茶の発祥地として記念碑として示されています。

確かに静岡~の始まりになつておりますがルーツと流れの始まりは

佐賀の嬉野にあるみたいです。

佐賀県は当初日本の貿易の始まりの拠点でした。

ここから九州、本州、関東と流れて

本格的に栽培されたのが今の静岡だと思います。

千利休(1522~1591)らによって「茶の湯」が完成し

心のゆとり、思考の場、接待の場として

豪商や武士、殿様に献上することで喫茶として浸透したのです。

お茶の製造は宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)が煎茶の祖

で煎茶を生み出し玉露製法手して「宇治製法」と呼ばれ

全国に広まったそうです。

そしてこのころから1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び

1859年、長崎、横浜、函館の開港を機に生糸とならぶ重要な輸出品として茶181トンが輸出

その当時久留米の八女地方の星村地域で栽培と加工手もみ玉露が生産されています。

今では玉露の産地としては八女と宇治しかありません。

高価なお茶として一般庶民にはほど遠くなっている産物です。

貴重な価値あるお茶です。

                        福来茶留あわちゃんでした


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